美学

一貫した自己満足

英語入試改革論

気分でゆっくりゆっくり更新しながらも、今日はちょっとクソ真面目な話というか、思考整理と疑問提起の為に。


元号も変わってしばらくして、2019年も残り3ヶ月となってしまった。


来年の2020年に控える国民的にホットな話題として夏のオリンピックがある。

そしてもうひとつ、教育に携わる人、教員を目指して勉学に励んでいる人、更には現高2生までを巻き込んで大きく取り上げられているものにお気づきの方も多いかもしれないが

大学入試改革

がある、私は密に関わっておらず主にSNSやネットニュースなどで動向を探る程度のことしか出来ていないので、細かくは各自調べてもらうといいが、大まかには


・入試改革賛成派(文科省大臣もここ)
センター試験を廃止し、民間の4技能入試を取り入れようと試みている。
現に英検がそのうちの候補として正式に採用されて、9月の18日(確か)から高校生に受験番号の予約を開始しようとしている。
更に、ベネッセの打ち出す新入試形態のGTECを導入しようともしている

しかし、その制度の不備を懸念して、現在は反対の声が多く上がっている。

・受験の公平性が保たれない
・急な改革を進めるあまり、制度の不備や情報が浸透していない
・そもそも4技能を推し進める必要性がない

などが多く散見される意見だ。
もちろん、中には4技能化に賛成する声もある。
新興国として力を伸ばしている周辺のアジアの国と日本の英語力とを比べて日本もグローバル化を推し進める為に実用英語を身につけて行こうとする声だ。
先にも言ったが、まだ一大学生であり、制度に精通していないので上2つではなく、3つ目の観点から思考整理と疑問提起を。


こうした賛否両論を踏まえた上で、まずはあえて入試改革とは一歩遠ざかった場所から、グローバル化の必要性について意見を述べよう。


個人的な考えだと、国民を上げて一億総グローバル化は全くを持って必要ないと思っている。

「来年に控えたオリンピックに向けて、英語で案内を〜、簡単な会話を〜」というのは、オリンピックに携わる人達が備えておけばいいんじゃない?
それに選手達にはスタッフとしてコミュニケーションの間を取ってくれる人たちがいるだろうし。

さらには、”グローバル化”というのは小さい世界とも言われるが、各国の(文化などの)差異を取り払い、地球規模で物事を考えることであって、今回のオリンピックのような日本を世界に売り出す、魅力を発信していくのであれば”インターナショナライズ”というのが正しいような気がする。(参照 https://gimon-sukkiri.jp/global_international/)

これではただの揚げ足取りに過ぎないが、要は一億総グローバル化を無理に進めていくと、日本特有の個性というものを潰してしまい、言語面では英米権威主義を受けて一種の植民地化をしてしまうのではないか?という事だ。極論かもだけど。

じゃあ周辺のアジア国は!シンガポールは!インドは!
という方、ちょっと落ち着いて、彼らは確かに流暢に英語を話し、グローバルに活躍する人達も多いが、そういう人たちは祖国内のエリート達であり、世界に出るための訓練として厳しい英語教育を受けて試験を受けているのであり、TOEFLやIELTSなどを見ても世界に羽ばたこうとする一握りの人達が受けている。総グローバル化とは言えないだろう。さらには英国の植民地であったという側面もこれに一助してるんじゃないかな?と個人的には思う。(あまり歴史に詳しくないので間違ってたら追記します)

これらから、ほとんどの高校生が受けるだろう入試をわざわざ変えてまで、一億総グローバル化を推し進めなくてもいいのじゃないかな。



次に、入試の制度と、将来教育に携わろうとしている身からの意見を。

私は実は少し前までは4技能入試に慎重ではあるが賛成派だった。しかし、柴山昌彦文科省大臣のツイートを巡って、問題点が露になると同時に、色んな意見を見たあとではだいぶ意見が変わってきた。

https://takuyarukoto.hatenablog.com/entry/2019/03/02/163244

もちろん上に触れた教師像は変わっていない、資格もきちんと取ろうと考えている。

ただ、新入試で求められる人材や焦点となる能力という面から見ると、この改革は中止あるいは延期して再考する必要があると強く感じている。

https://twitter.com/shiba_masa/status/1169457814093217792?s=19 このツイートに表れていることに加え、入試が変われば指導要領も変わり、実用英語を操れるようになる。
そのために実用英語をセンター試験を廃止する、とあるがこれらを分けて考えてみたい。

まずはツイートを受けて
このことと英語教育を変えることは必ずしもイコールとは限らなくないか?少なくとも母語の日本語で教育を受けられる整備がある現段階では。それなら日本語でのディベート教育を敷く、入試の”国語”に4技能入試を導入するなど、前提はまた変わってくるはず。


そして実用英語を操る、ということだが大前提として言語は単に人とのコミュニケーションを計る手段以外の何者でもなくて、その手段の先にある目的(海外で働く、専攻分野の英語の資料を読む、等)を遂行するために運用基盤としての言語が必要であり、喋ることのみを念頭におくべきではない、本末転倒となる。

また、流暢に喋れることだけを考えて要領を変えてしまうと、生徒が三者三様である以上は興味も大きく異なり、仮に興味のあることをプレゼンしようとした時に扱う分野がジャンルレスとなってしまう。(医学と法学では必要とされる単語や知識がまるで異なる)
なのである程度の興味や専攻を分けた(大学に進む)上で、海外へ出ようとして必要に迫られた時に英語という手段を身につければ良い、と思ってる。

最後に、教員を目指す上で
ひとつ懸念としているのが、子供たちの全員が英語を堪能になりたいと思ってはいないだろう、ということだ。
私は個別指導の塾で講師として2年ほど教えていたことがあり、そこでは苦手科目の英語をなんとかテストで悪い点を取らないようにと学びに来ていた。そんな子達の負担を増やしてしまえば、ますます拒絶反応は酷くなるばかりか、負担に圧されて他教科が疎かになる可能性もある。そんなことは全く望んでいない。

ただ、平泉渡辺論争https://languagevillage.co.jp/english_and_japanese/%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E6%95%99%E8%82%B2%E5%A4%A7%E8%AB%96%E4%BA%89%E3%81%AE%E8%A7%A3%E9%87%88/ の渡辺氏の試案を借りてそれに加えるとすれば、世界最大規模の公用語である英語を学習するということは、思考力をきちんと鍛えられるものでもあるし、英語で書かれた資料を通じて広い知見を得ることが出来る。なのでインプットとしての読み聞き(リーディングとリスニング)、言わば潜在力は蓄えておく必要はあると思う。

義務教育(高校進学が殆どなので高校での知識も)というのは国民が最低限蓄えておいてほしい知識のことで、そこに高望みする必要はないんじゃないかなと、さらに言うと、将来何らかのきっかけで学び直しをしたくなった時にそのきっかけとなる基盤をを植え込んでおくのが義務教育の役割ではないかと、そしてそれを手助けするのが教員の役割であると私は考えている。


あるいは厳密に高校教育と義務教育を分けるのであれば、高校が大学進学を目指すものだと定義するなら(商業や工業などは除く)、英語のカリキュラムは高校からスタートしていいと思っている。(別の記事にします、とりあえずここまで!)

ここまで述べてきたのが本心で、これらを踏まえて現状の英語入試改革論には問題は懸念材料が多く、中止あるいは延期して再考すべきだろう。